ためいき散文

メタバースプラットフォームclusterに住み着いたイチ作業民が普段から考えていることを書きます。

自分にゾッとする毎日。

自覚するたびに膝下が急激に重たく、冷たく感じる。

夢で見た「支配しようとしている」という言葉が、少し納得できた。

うっすらと感じていたことが実体を持って染み出てくると、もう認めるしかない。

常に思考のクセの軌道修正を心掛け、調子の悪いときにはジッと心を見つめていく、この繰り返しをやってみようと思う。

だれもなにもしてくれないよ。

自分でやるしかないんだよ。

っていうのは本当にそう。自分の行動と気づきありきだと歳をとるごとに思う。

そういう内側に向かう感じの表現もあるけれど、それでも、「それはあなたの人生!慎ましくも輝こう」というような表現が好きだし火の属性のぼくは心に火がつく。

 

熱を表現している作品や曲に触れると安心できる。
元気でも寝込んでても、まだまだいける、進めることが嬉しく、加速している感じがする。

 

こういうときいつも目の前に紙吹雪が舞っているのが見えるのだけど、それがすごく綺麗でうっとりしてしまう。

 

そういうワールド作りたいかも。

少し距離を置いたところから、いろんな人が応援してくれてるのをとても感じています。

ぼくが元気に笑っているといいな、と純粋な気持ちで思ってくれてるのだな、きっと、と。

 

今日は十年来の友人と久しぶりに通話をしました。

たくさんの人がすいかのことを見てくれて、愛してくれてるんだよ、と静かに教えてくれました。

 

だからこそ、ぼくの中の加害性や攻撃性が浮き彫りになって、それらを自覚しはじめた以上、そう思ってくれてる人たちにはなおさら近づいたらいけないのではなかろうかと。

 

こんなんだったら、一人きりになって、間接的に人と関わりながらなにか人の役に立つことを探して黙ってせっせとこなして、そうでない時間は草の上で絵を描いたりしているのがいいのかもしれない。

 

今思いつく誰かが喜んでくれることは現在進行形でしているつもりではあるけれど、なんだか漠然と不安なのです。

とはいえ行動しか勝たんというのはあるなと実感しているので、元気でいられる時間は動いていきたい。

創作とリアルあるあると対人

ワールドを組み立てたりVRoidの衣装を作ったりするとき、「どのくらいリアルかどうか」を重要視している。

テクスチャや造形がリアルだとかそういうことも大切なのだけど、ぼくなりの「リアルあるある」みたいなものがその空間にあるということにこだわっているのかもしれない。
「さっきまでそこに誰かが居た感じ」と言った方がわかりやすいかも。
(↑これを一言で表せる熟語があったら知りたい)

例えばclusterで公開しているワールド「見つめ山と小部屋」は、以前ぼくが暮らしていたことがある住居がモチーフになっているのだけど、

cluster.mu


レトロな扇風機のモデルが、これまたレトロなテレビの横に置きっぱなしになっている。

雪山がモチーフになっているワールドなのに、扇風機が出ているのはぼくがリアルでもものぐさだからだ。
季節ものを押し入れにちゃんとしまうとかそういうことがなかなかできない。
こないだ来てくれたフレンドさんのフレンドさんは「このワールド、夏だとおもったら冬なのか」と言っていたが、とてもよく見てくれてる!となり大変嬉しかった。
畳の上で靴を履くのが忍びない!と靴下アバターを作って訪れてくれた人もいた。
なにそれ!天才かよと思った。その感覚、大好物なのでもっと見たい。

雑貨を無造作に置いてみたり、ストーブの上にヤカンを置いて湯気を出してみたり、DJセットの本棚がスカスカだったり(本で棚をみちみちにしたらかっこいいだろうなと思いつつ、分厚い本は高価なのでなかなか埋まらないという悲しみ)、なんかそういう人間くささがワールドの中に染み付いている、みたいなのが好きでやたらと固執している。
できるならば冷蔵庫をずらしたときにできている床のへこみみたいなものも改変して作りたかったが、そこまでは気力がなかった。詰めが甘い。

ワールド探索に行くとき、そういったことを重要視してるであろうワールドに出会えると小さくガッツポーズしてしまう。
そして空間の隅々まで「リアルあるあるないかな」とジロジロウロウロと観察し、それでしか得られない栄養を胸いっぱいに吸い込み、ごちそうさま神様ありがとうなどと思いながら去る。

***


とここまできて思いついたのだけど。
創作と全然関係ない話をします。

最近、ぼくは他人のことをちゃんと「ひとりの人」として接しているだろうかと自己嫌悪モードに入っている。
ぼくは人が残した痕跡のようなものばかり追い求めているのではないだろうか?

誰かと同じ空間にいたとして。
目の前で誰かがぼくのために何かをやってくれた、こういう気持ちを伝えてくれた、ということになかなか目が向かない。
その人が今この場で何を使うかそれをどう扱うのか、どういう行動パターンをとるのかなどばかりが気になってしまう。
その人の言葉や好意、気持ちそのものを受け取るのではなく、「あそういう使い方をするのね、なるほどほうほう」みたいな少しひねくれた見方をしているな、と。
(一歩引いて世界を見ていますよ、ぼくは。みたいな姿勢をとりたいのかもしれない。)

そういう部分が創作に役に立っている体感はあるが、対人においてはよくはないだろうなと思う。

リアルタイムで純粋に対等に対面することができていないように感じる。

それがなぜなのかは人に対してどこかにうっすらとした不安や恐怖があるからかもな、というぼくの中の仮説はあるが、書くのが疲れたのでここまでにします。

ためいき散文をはじめます

最近、マジでいろいろ失敗しました。
完全なる自業自得なのだけれど、ボコボコです。


そんなこともあり、頭の中のエントロピーが増えるのに比例してXで考えを垂れ流すようになった。
でもそれはだれかにとっては望んでいないものであったり日々の暮らしのノイズになるのではないかという気持ちがぽつぽつと湧いてきた。

物理ノートに個人的な考えを書き散らすみたいなことは2年半ほど続けてきて、Xでもブツブツ言っていて、それでもまだまだ書き足りないということでブログを作ってみた。

そんなにしゃべりてーならしゃべれるところに行って好きなだけしゃべってこい、ということです。

とはいえ、メタバースで過ごして思ったことやリアルの暮らしで感じたことを言語というツールを使ってなんとなくカタチにするのは、僕にとってはとても面白いことだと感じる。
だれかとのお喋りも含めて。

「思いは言語化するべき!」とかはたまた「言葉は不完全だ!いや完全だ!」とかいろいろ考えは僕の中にもあるんだけど、それはひとまず置いておいて。

文字や言葉が外側に出てきて重なっていくのってなんか楽しいのです。

そういう遊びをやれたらいいなと思う。